เข้าสู่ระบบ鍋の底で、粥が小さく息をしていた。
白い表面がふくらみ、音もなく割れて、湯気を吐く。紬は弱火に落とした鍋を木杓子でゆっくり混ぜた。米粒が潰れすぎないように、それでいて岩蔵が喉へ詰まらせない柔らかさになるように。
窓の外はまだ青暗い。
卓臣が出張へ持っていった車はなく、家の前の道にも人影はなかった。二階の寝室に彼はいない。それでも家の静けさが安らぎへ変わることはない。
昨夜叩かれた左頬は、夜が明けても熱を持っていた。口を開くと、噛み切った内側の傷が歯へ触れる。鏡を見れば赤みが残っていたが、長い前髪を下ろせば隠せる程度だった。
紬は小さな保冷剤を頬から外し、冷凍庫の奥へ戻した。
見つかれば、食べ物を入れるところへ汚いものを置くなと言われる。自分の顔へ使ったものを、八重が許すはずはない。
粥を椀へ移し、塩をほんの少しだけ振る。昨日は味がないと吐き出され、その前は塩辛いと椀を投げられた。何が正しい量なのか、もう紬には分からなかった。
盆の端には、ぬるめに冷ました番茶を置いた。
熱ければ怒り、冷たければ病人を殺す気かと怒る。指を浸して温度を確かめようとしたが、荒れた皮膚が触れれば不潔だと責められるのを思い出し、紬は手首へ椀の底を当てた。
火傷しない温度だった。
少なくとも、紬にはそう感じられた。
岩蔵の部屋の前へ立つ。
障子の向こうから、湿った咳が聞こえた。紬は一度息を整え、声をかける。
「おはようございます。朝ご飯をお持ちしました」
返事はなかった。
障子を開けると、薬と汗の匂いが籠もった空気が顔へ触れた。岩蔵は布団へ半身を起こし、窓の方を睨んでいる。
紬は盆を畳へ置き、背中へ薄い座布団を差し込んだ。
「お身体を少し起こしますね」
「触るな」
「このままだと、むせてしまいますから」
「うるさい」
細い腕に予想外の力が入り、紬の手を振り払う。爪が昨日つけられた手首の傷を掠め、鋭い痛みが走った。
紬は顔を歪めそうになるのを堪え、岩蔵の身体が倒れないよう肩を支えた。
「申し訳ありません」
謝りながら、なぜ自分が謝るのかを考える余裕はなかった。
胸元へタオルを当て、粥の椀を持つ。匙で少量をすくい、何度か息を吹きかけてから、岩蔵の口元へ運んだ。
「熱くありません。少しだけ召し上がってください」
岩蔵は唇を固く閉じた。
匙が触れる直前、枯れ枝のような手が動いた。
金属の匙が弾かれ、畳へ落ちる。乾いた音が鳴った直後、その手が粥の椀へぶつかった。
椀が傾いた。
白い粥が紬の胸元へ流れ落ち、左腕へまともにかかった。
「っ……」
息だけが喉から漏れた。
布地を通して熱が皮膚へ貼りつく。反射的に服を引き離そうとしたが、岩蔵の身体が前へ傾いたため、紬は逃げられなかった。片手で肩を支え、もう一方の手で椀を受け止める。
「危ないですから、動かないでください」
「殺す気か!」
岩蔵が叫び、紬の手の甲へ爪を立てた。
薄い皮膚が裂けた。四本の赤い線が浮かび、そのうち二本から血がにじむ。
痛みに指の力が抜け、残った粥も畳へこぼれた。
襖の向こうで、足音が近づく。
「何の騒ぎだい」
八重が障子を勢いよく開けた。
紬の胸から腕へ粥が垂れ、畳には椀と匙が転がっている。岩蔵は両手を震わせ、声を上げていた。
「熱い! 殺される!」
「お父さん、大丈夫?」
八重は岩蔵の側へ駆け寄り、背中をさすった。紬が火傷した腕を押さえていることにも、血のにじんだ手にも目を向けない。
「熱くないように冷ましてから、お持ちしました。でも、おじいさんが椀を――」
「言い訳するんじゃないよ」
八重の声が、朝の冷えた部屋へ鋭く響いた。
「熱かったから父さんが怒ったんだろ。床をきれいにしな」
「はい」
紬は唇を噛み、立ち上がろうとした。濡れた服が皮膚へ擦れ、胸元と腕に焼けるような痛みが走る。
「どこへ行く気だい」
「雑巾を取ってきます」
「食べ物を粗末にするな」
紬の足が止まった。
八重は、畳へ広がった粥を顎で示した。白い米粒に岩蔵の寝巻きから落ちた糸屑が絡み、紬の手から落ちた血が一滴、端へ滲んでいる。
「まだ食べられるだろ」
「でも、畳に落ちています」
「だから何だっていうの。あんたがこぼしたんじゃないか」
「……分かりました」
紬は床へ膝をついた。
粥の熱が畳へ吸われ、湿った湯気とい草の匂いが混ざっている。火傷した腕を庇いながら、指先で米粒を集めようとした。
その手を、八重の声が止めた。
「手で取るんじゃない。床まできれいにしろ」
意味を理解した瞬間、紬の呼吸が浅くなった。
岩蔵の前には、まだ使われていない箸も匙もある。手を伸ばせば届く。けれど八重はそれを許さず、紬を見下ろしていた。
「早くしな。仕事に遅れるよ」
背中へ、八重の足先が当たった。
強く蹴ったわけではない。逃げようとするものを追い立てるように、ゆっくりと押された。その軽さがかえって、紬を人として扱っていないことを伝えていた。
掌を畳へつく。裂かれた手の甲から血が落ちた。
顔を近づけると、冷め始めた粥と古い畳の匂いが鼻を満たした。胃がせり上がり、喉の奥が狭くなる。
「まだ残ってるだろ」
八重の声が頭上から落ちる。
紬は目を閉じ、畳に落ちた粥を口へ入れた。
米粒の中で細い糸屑が舌へ触れた。噛まずに飲み込もうとしても、乾いた喉が拒んだ。何度か息を止め、ようやく胃へ押し流す。
岩蔵はそれを見ながら、荒い息を吐いていた。
八重は何も言わず、紬の顔が畳から離れるたび、まだ残っている場所へ足先を向けた。
最後の米粒が見えなくなる頃には、紬の目の縁へ涙が浮かんでいた。悲しいからではない。吐き気と、床へ近づけた顔へ埃が入ったせいだと、自分に言い聞かせる。
「畳がべたべたじゃないか」
八重が言った。
「雑巾を持ってきます」
「当たり前だろ」
紬は立ち上がった。膝に力が入らず、柱へ手をつく。粥のついた服が身体へ張りつき、熱の引いたところから冷たくなっていた。
廊下へ出ようとした時、八重が湯呑みを持ち上げる。
「こんなぬるい茶を出して。父さんが腹を壊したらどうするの」
「お身体に負担がない温度にしたつもりで――」
「また口答えかい」
湯呑みが振られた。
番茶が畳へ弧を描き、紬の足元へ広がる。一部が脛にかかり、熱が皮膚を刺した。
紬は動けず、茶色い染みが粥をこぼした場所より大きく広がっていくのを見ていた。
「ほら。洗うところが増えたよ」
八重は空になった湯呑みを盆へ戻した。
「あんたがちゃんとできないから、朝からこうなるんだ」
紬は返事をしなかった。
声を出せば、胃へ押し込んだ粥まで戻ってきそうだった。
雑巾で畳を何度も拭き、乾いた布を押し当てる。岩蔵の寝巻きを替え、濡れたタオルを洗濯籠へ入れた時には、家を出る予定の時刻を二十分過ぎていた。
胸元の服は濡れ、粥と番茶の染みが大きく残っている。このまま制服へ着替えれば、肌へ匂いが残る。
けれど浴室を使う時間はなかった。
紬は着替えを取りに、廊下の突き当たりにある物置へ向かった。普段着は夫婦の寝室に置かれているが、仕事用の下着や古いシャツだけは、八重から邪魔だと言われ、物置の衣装箱へ押し込まれている。
扉を開けると、薄暗い空間に防虫剤と埃の匂いが満ちていた。
高く積まれた箱の隙間へ身体を入れ、奥の衣装箱を引き出す。蓋を開けた時、背後で扉が軋んだ。
振り返るより先に、男の腕が紬の腹へ回った。
「……っ」
背中へ繁政の身体が押しつけられる。酒と古い煙草の匂いを含んだ息が、耳元へかかった。
「静かにしろ」
紬の身体が強張った。
恐怖で動けないのではない。動けば、何をされるか分からない。それでも離れなければならないと、頭の中で何度も命じる。
「離してください」
「卓臣は二日も帰らないんだろ」
繁政の手が腹から腰へずれ、尻へ伸びた。
紬は身を捩った。狭い物置の中で肩が棚へぶつかり、積まれた箱が揺れる。
「やめてください」
「卓臣が相手をしないなら、俺がかわいがってやる」
囁く声には甘さなどなかった。拒めばこの家から追い出せると知っている者の、濁った笑いが混じっている。
繁政の指が服越しに尻へ触れた。
紬は息を呑み、肘を後ろへ引いた。繁政の脇腹へ当たり、腕の力が一瞬緩む。
その隙に身体を回し、両手で胸を押した。
「触らないでください!」
声が物置の壁へ跳ね返った。
繁政の顔から笑みが消えた。
紬が扉へ手を伸ばした瞬間、繁政は自分から棚へ肩をぶつけた。
金属製の棚が大きく傾く。
箱と洗剤の詰め替え袋、古い食器の入った段ボールが次々に床へ落ちた。皿の割れる音が家中へ響き、扉の外から足音が近づいてくる。
「何をしてるんだい!」
八重が駆け込んできた。
繁政は脇腹を押さえ、床へ座り込んだ。たった今まで紬を抱いていた腕を震わせ、苦しげに顔を歪める。
「こいつが、急に抱きついてきたんだ」
紬は言葉を失った。
「俺がやめろと言ったら、突き飛ばして棚まで倒しやがった」
「違います」
声が掠れた。
「お義父さんが後ろから抱きついてきて、身体を触ったんです。私は、逃げようとしただけで――」
「見苦しい言い訳をするんじゃないよ」
八重の目は、初めから繁政しか見ていなかった。
紬の濡れた胸元へ、ようやく視線が移る。
粥と番茶で濡れた薄い服は身体へ張りつき、乱れた襟元から鎖骨が覗いていた。八重は何が起きたのかを確かめる代わりに、汚らしいものを見るように唇を歪めた。
「そんな格好で男のいるところへ入り込んで」
「着替えを取りに来ただけです」
「誰に見せるつもりだったんだい」
「違います」
「お父さんが嘘をついてるって言うのか」
繁政は俯きながら、口元だけで笑った。
紬には見えた。
八重からは見えない角度を選び、勝ったと言うように笑っていた。
「本当に卑しい女だね、あんたは」
八重の言葉が、物置の冷えた空気へ沈んだ。
廊下には子どもたちが集まっていた。
茉白は紬の濡れた服を見て顔をしかめ、颯真は扉の陰からスマートフォンを向けている。結莉は八重のスカートをつかみ、繁政を心配そうに覗き込んだ。
凌雅が苛立った声を上げる。
「母さん、朝から何やってんだよ。学校遅れるんだけど」
湊人だけが少し離れた場所に立ち、紬の血のにじんだ手を見ていた。
唇が動いたが、声にはならなかった。
母さん。
あんた。
こいつ。
女。
家の中で紬へ向けられる呼び方はいくつもある。
けれど、そのどれ一つとして彼女の名前ではなかった。
「ぼさっとしてないで片づけな」
八重が命じた。
紬は床へ膝をつき、割れた皿の欠片を拾い始めた。指先が触れるたび、白い破片同士がかすかな音を立てる。
外では、通学路を行く子どもたちの声がしていた。
時計の針は進み続けている。職場へ遅れれば奈津子に責められる。着替えも、火傷の手当てもできていない。それでも散らばった箱を戻し、床を拭き、繁政へ謝るまで、八重がここから出すはずはなかった。
紬は破片を拾った。
誰も、その手から血が落ちていることを気に留めない。
片づけを終えた時には、出勤時刻まで十五分も残っていなかった。
紬は物置で新しい服へ着替え、火傷した腕へ濡らしたハンカチを巻いた。鏡を見る余裕はない。頬には昨夜叩かれた跡があり、胸元の皮膚は粥を浴びたところだけ赤くなっている。手の甲から流れた血は、洗っても爪の間へ残った。
「行ってきます」
玄関で声をかけても、返事はなかった。
駅まで走る途中、腕を振るたび火傷した皮膚が服へ擦れた。息が切れ、肺の奥が冷たい空気で痛む。それでも足を止めれば、遅刻した理由を説明しなければならない。
家庭の事情で、とは言えなかった。
家の床へ落ちた粥を食べさせられ、舅から身体を触られ、抵抗したら誘惑したことにされた――そんな言葉を、紬は自分の声で形にすることができなかった。
スーパーへ着くと、奈津子が打刻機の前で待っていた。
「御厨さん、三分遅刻」
「申し訳ありません」
「五人も子どもがいたって、仕事には関係ないから。早く着替えて」
御厨さん。
それは紬の姓ではあっても、彼女だけの呼び名ではなかった。卓臣も、凌雅も、茉白も、同じ御厨である。
ロッカーの鏡の前で制服へ着替え、胸へ名札を留める。
透明な板の下には、《御厨 紬》と印刷されていた。
紬は安全ピンへ触れ、名札を少しだけまっすぐに直した。
売場へ出れば、客からは店員さんと呼ばれる。奈津子からは御厨さん。家へ戻れば、お前、あんた、母さん、こいつ。
呼びつけるための言葉はいくつもあった。
けれどその日も、名札に書かれた「紬」という二文字を、声にして呼ぶ者は一人もいなかった。
その日、紬がレンタルルームへ持ってきた鞄は、いつもより少しだけ重かった。中に入っているのは着替えでも食事でもなく、薄い大学ノートが三冊と、透明なファイルへ挟んだ銀行明細やレシートの写しだった。長年使い続けてきた家計簿の一部で、表紙の角は擦れ、何度も開閉したページの端には油や水の薄い染みが残っている。子どもが幼かった頃に書いた鉛筆の数字と、最近の細いボールペンの文字が同じ一冊の中に並び、紬が何年も同じ台所で金額を削り続けてきた時間そのもののように見えた。 律は机の向こうへ座り、紬が一冊目を開くまで何も尋ねなかった。今日はスープも菓子もなく、二人分のペットボトルの茶だけが机の端に置かれている。紬は最初のページをめくり、五万円と大きく書かれた月で指を止めた。「これ、まだ生活費が五万円だった時」「十人で?」「うん」「食費だけ?」「食費と日用品と、学校で急に必要になったもの。病院代は卓臣が出すって言ってたけど、細かい診療代は結局ここから払うことも多かった」 律は眉を寄せたが、何も言わずページへ目を落とした。米、肉、魚、牛乳、洗剤、トイレットペーパー、学校用品。数字は一円単位で細かく並んでいる。月末へ近づくにつれて、肉の回数が減り、豆腐ともやしが増え、紬自身の昼食欄だけが空白になる日が多くなっていた。「この頃から、自分の分減らしてた?」「減らすっていうより、残ったものを食べてた」「残らなかったら?」「食べない」 答えてから、紬は自分でも平然と言いすぎたと思った。律の表情が少し曇る。それでも彼は「何でそんなことを」と責めるようには言わず、次のページへ目を移した。「これが三万円になった月」 紬は別のノートを開く。赤いペンで〈三〇、〇〇〇円〉と書かれ、その下へ日付ごとの支出が並んでいる。月の半ばを過ぎたところから、買い物の内容が明らかに変わっていた。豚肉の代わりに鶏むね肉、刺身の代わりに豆腐、果物は安いバナナだけ。八重が要求する八品を維持するため、同じ材料を切り方と味付けで別料理に見せている日もある。「ここ、何で一日食費四百円台なんだ」「前の日の残りと、冷凍してあったもの使ったから」「十人分?」「うん」「無理だろ」「だから、私の分を数えなかった」 律は何か言いかけてやめた。紬はその沈黙の意味が分かった。以前なら、自分でも「でも仕方なかった
卓臣の会社から家族同伴の食事会があると聞かされた時、紬が最初に考えたのは、誰が岩蔵を見るのかということだった。八重は「たまには嫁らしく夫の顔を立ててきな」と言い、自分が数時間くらい父親のそばにいるから問題ないと答えたが、その口ぶりだけで、帰宅後に何を言われるかは想像できた。子どもたちは同行せず、夫婦だけで出席するらしい。卓臣は紬へ予定を相談するのではなく、三日前になって日時と場所を告げ、当日は仕事を早退するよう命じた。「会社には自分で話します」「休めばいいだろ」「早退できるか確認します」「俺の会社の付き合いなんだから、それくらい合わせろよ」 以前なら、その場で謝って店長へ無理を言ったかもしれない。今の紬は勤務表を確認し、交代可能な従業員がいることを確かめた上で、一時間だけ早く上がれないか申し出た。理由も「家族行事」とだけ伝えた。鴨志田は以前のように夫から何か連絡があったのかとは聞かず、「分かりました」と勤務変更を記録に残した。 当日の夕方、紬が帰宅すると、卓臣はすでに支度を終えていた。紺色のスーツに新しいネクタイを締め、鏡の前で髪を整えている。ベッドの上には、紬が数年前に親族の結婚式用として買った濃紺のワンピースが置かれていた。「それ着ろ」「これ?」「スーパーの制服みたいな格好で来られたら困るからな」 紬は黙って着替えた。ワンピースは以前より少し緩くなっている。体重が落ちたせいで、腰のあたりに余分な布ができていた。化粧も最低限だけ整え、髪を一つにまとめる。卓臣は玄関へ出る前に紬を頭から足まで確認し、口紅が薄いと言って自分の指で紬の口元へ触れようとした。「自分で直します」 紬が顔を引くと、卓臣の眉が動いた。「今日くらい普通にしろよ」「何が普通なの」「夫婦としてだよ」 その言葉を聞きながら、紬は口紅を塗り直した。 会場は都心のホテルにあるレストランだった。卓臣の会社の取引先や同僚、管理職とその家族が集まり、円卓ごとに名前が決められている。受付へ着いた瞬間から、卓臣の表情は家にいる時とは別人のように柔らかくなった。「妻の紬です」 名前を呼ばれた。 家では滅多に呼ばない名前を、卓臣は他人の前ではためらいなく使う。「五人もお子さんがいるんですよね」 同僚の妻らしい女性が驚いたように言う。「そうなんです。全部妻が頑張ってくれてい
誕生日会から二日後、紬はレンタルルームの扉を開けた瞬間、まず律の顔を見た。頬にも手にも新しい傷はなく、それだけで胸の奥が少し緩む。けれど安堵のすぐ後に、華怜の家で何があったのかという不安が戻ってきた。あの夜、律は皆の前で紬へケーキを渡し、椅子まで運んだ。華怜も卓臣も、二人の関係を疑っている。今ここで会うこと自体、本来なら避けた方が安全なのだと、紬にも分かっていた。 部屋には、いつもの二脚の椅子と小さな机、壁際の古いソファがある。今日は食事を用意していなかった。律は先に着いていたが、紬が入ってもすぐには近づかず、机の向こうで立ったまま待っている。紬が椅子へ座るのを見てから、ようやく自分も向かいへ腰を下ろした。「この前は、ごめん」 律が先に言った。「何が?」「誕生日会。俺が余計なことした」 言い訳を探すような声ではなかった。紬は鞄を膝へ置き、その留め具へ指をかけたまま律を見る。「困らせたと思う」「……うん」 紬は否定しなかった。「怖かった。華怜も見てたし、卓臣も怒ってた。あの場で律が私にケーキ渡したら、また何か疑われるって分かった」「ああ」「椅子まで持ってきたでしょう」「それも悪かった」 律は短く答えた。「前に久世家でもやったから、同じことをすればいいと思った。でも今は状況が違う。紬が自分で距離を決めようとしてるのに、俺が先に動いた」 その言葉に、紬は少しだけ目を伏せた。怒っているわけではない。むしろ、あの日渡されたケーキをまだ覚えている。自分の名前が書かれていない大きなケーキの端を、小皿へ載せて差し出された時、家族全員の前で手が震えた。それでも皿を床へ置かず、一口だけ食べた。「うれしくもあった」 律の目が上がる。「怖かったけど、うれしかった」「どっちなんだ」「両方」 紬は自分でも少し笑った。「私、あの時、本当に食べちゃいけないと思ってたんだよ。華怜のためのケーキだから。私の名前は書いてないし、お義母さんもお母さんも、私は祝われる側じゃないって言ってたから」「それは違うと思った」「うん。それを、律が皿ごと渡してくれたでしょう」 紬はそこで一度言葉を止めた。「だから、自分にも食べる権利があるんだって分かった」 律は何も言わずに聞いている。「でも、今度からは私に選ばせて」 紬ははっきり言った。「食べるかどうか
午後六時を回るころには、御厨家の食卓だけでは皿が収まらなくなっていた。紬が早朝から仕込んだ料理は十二品あり、鯛の塩焼き、筑前煮、茶碗蒸し、甘い出汁巻き卵、華怜が好きな海老の含め煮まで、大皿と小鉢が居間の座卓にも並べられている。仕事から戻って休む間もなく仕上げた料理だったが、八重は数を確かめるより先に鍋の中を覗き、「これ、十人分くらいしかないじゃないか」と眉を吊り上げた。今日は静江と隆、華怜と律まで来るため、普段の食卓より人数が多いことなど、紬にも分かっていた。それでも材料費を増やす金は渡されておらず、三万円に減らされた生活費の残りと自分の財布から出さずに済む範囲で、豆腐や根菜を使って量を増やしていた。「足りなかったらどうするんだい。華怜ちゃんの誕生日なんだよ」「十二品あります。ご飯も多めに炊いてあります」「品数の話じゃないよ。客に遠慮させるようじゃ嫁の恥だって言ってるんだ」 八重はそう言いながら、海老の大皿から一番形の良いものを華怜の席になる皿へ先に取り分けた。紬は言い返さず、鍋の底に残った筑前煮を別の鉢へ移し、見た目だけでも量があるよう整えた。今日は自分も誕生日だと昼までは意識していたはずなのに、家へ帰って台所へ立ってからは、またいつものように「何人分足りるか」「誰が何を嫌うか」ばかりを考えている。昼休みに食べた小さなプリンと、律が言った「誕生日おめでとう、紬」という声だけが、朝から続いている一日の中で別の場所に置かれた記憶のようだった。 六時半を過ぎたころ、静江と隆が到着し、その十分後に華怜と律が来た。華怜は淡い生成り色のワンピースに金木犀の香水をまとい、誕生日の主役らしく髪まで丁寧に巻いている。静江は玄関で娘を抱きしめ、「今年も元気にこの日を迎えられてよかった」と目を潤ませた。そのすぐ横で靴を揃えていた紬には、誕生日について何の言葉もなかった。隆は紬と一瞬目を合わせたが、「料理、大変だったな」とだけ言い、そのまま居間へ入った。「姉ちゃん、これ全部作ったの?」「うん」「すごい。でも、この卵焼きちょっと色違うね。昔はもっと黄色かった気がする」 華怜が笑いながら出汁巻き卵を見た直後、静江が一切れ口へ運んだ。咀嚼してから首を傾げ、「華怜が好きだった味と違うわね。昔はもっと甘かったでしょう」と言う。紬は砂糖を増やして作ったことを伝えたが、静江は「病
八月の終わりが近づくと、御厨家の食卓に華怜の名前が増え始めた。最初に言い出したのは八重で、夕食後の茶を飲みながら、今年はちゃんとした食事会にしようと卓臣へ話していた。華怜は身体が弱かったのに、今年も無事に誕生日を迎えられるのだから祝わなければならないという。紬は流し台で十人分の皿を洗いながら、その会話を背中で聞いていた。「鯛は尾頭つきがいいね。華怜ちゃん、昔から見栄えのいいものが好きだから」「ケーキは俺が頼むよ」「去年みたいな小さいのじゃ駄目だよ。せっかくの誕生日なんだから」 卓臣と八重の声が続く。結莉はどんなケーキなのかと尋ね、茉白は華怜の好きな店なら駅前の洋菓子店だと口を挟んだ。凌雅と颯真も、どうせなら自分たちも食べられる大きいものにしてほしいと笑っている。その場にいる誰も、華怜と同じ日に生まれた人間が流しの前に立っていることへ触れなかった。 紬は洗剤の泡を流しながら、自分でも驚くほど静かな気持ちでその事実を受け止めていた。三十八回近く繰り返してきたことだった。双子なのだから誕生日は同じはずなのに、久世家ではいつも華怜の体調が中心になり、結婚してからは御厨家までそれを当然のように引き継いだ。悲しくないわけではない。ただ、悲しいと感じる前に「仕方がない」と自分へ言い聞かせる癖の方が、長い年月をかけて先に動くようになっていた。 翌日、静江から電話が来た。紬が休憩に入った直後で、画面に母の名前が出た瞬間に胃の奥が重くなる。それでも出なければ何度も着信が続くことを知っているため、人気のない従業員通路の端で応答した。『華怜の誕生日プレゼント、今年はこの化粧品にするから』「何の話?」『限定のセット。八万くらいするけど、華怜が前から欲しがってたの。あんたも半分出して』 紬は壁に背を預けた。生活費は三万円のままで、新しい口座に一万円だけ残せるようになったばかりだ。その一万円は、自分がようやく自分の名前で守れた金だった。「払えないよ」『また?』「またじゃなくて、払えない」『あんた、姉でしょう。誕生日くらい妹を祝ってあげようと思わないの?』「私も同じ誕生日だよ」 電話の向こうが一瞬静かになった。静江はその事実を知らなかったわけではない。ただ、忘れていたことを指摘された人のように、少し間を置いてから不機嫌そうな声を出した。『だから何なの。華怜は病
午前六時四十二分、紬は駅前の雑居ビルの階段を上がった。外はもう明るくなっていたが、朝の空気には夜の名残があり、日中ほどの暑さはない。それでも、家から駅まで自転車を走らせ、そのまま早足でここまで来たせいで、制服の下の背中には薄く汗がにじんでいた。スーパーの始業は午前八時。借りた部屋を出て電車へ乗り、従業員入口からロッカーへ向かう時間まで考えれば、二人に許されているのは四十五分しかなかった。 今朝も午前四時二十分に起きた。五人分の弁当へ米を詰め、鮭を焼き、卵を巻き、十人分の味噌汁を用意した。岩蔵には別に柔らかく煮た野菜を用意し、薬を飲ませ、夜中に汚れたタオルも洗濯機へ入れた。八重からは味噌汁の具が少ないと言われ、凌雅には弁当の肉を増やせと言われたが、六時十一分には家を出られた。自分の朝食だけは、台所へ置いたままの茶碗にさえ用意していなかった。 部屋の扉を開けると、律はすでに来ていた。濃紺のスーツに白いシャツ、ネクタイまで締めており、そのまま取引先へ向かっても不自然ではない姿だった。いつもの二脚の椅子と古いソファがあるだけの部屋で、仕事前の男が鞄を足元へ置いている光景は、どこか会議の待ち時間にも見える。「おはよう」「おはよう。早かった?」「十分くらい」「ごめん」「謝るところじゃない」 律はそう答え、机の上を示した。紙の容器へ入った味噌汁が二つ、包装された鮭のおにぎりが二つずつ置かれ、紙ナプキンと割り箸まで並んでいる。コンビニの袋から出しただけの朝食なのに、自分の前にも一人分があることを見た瞬間、紬は鞄を下ろす手を止めた。「食べてきたって言ったら?」「多分、嘘だと思う」「何で」「朝から十人分作った日は、紬は自分の分を後回しにするから」 言い返せなかった。律に生活の癖を知られていることが少し恥ずかしく、同時に、責めるためではなく食事を用意するために覚えられていたことがくすぐったい。紬は向かいの椅子を引き、もう「座っていい?」とは聞かずに腰を下ろした。「今日は鮭なんだ」「嫌だった?」「家でも鮭焼いてきた」「じゃあ別のにすればよかったな」「ううん。自分で焼いたのに、自分では食べてないから」 紬は包装を開いた。まだほんのり温かく、海苔の匂いがする。家で焼いた鮭は凌雅の弁当へ大きい部分を入れ、残りを五つへ分けたため、味見すらしていなかった。目







