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第3話 お前と呼ばれる女

ผู้เขียน: なつめ
last update วันที่เผยแพร่: 2026-07-26 18:12:37

 鍋の底で、粥が小さく息をしていた。

 白い表面がふくらみ、音もなく割れて、湯気を吐く。紬は弱火に落とした鍋を木杓子でゆっくり混ぜた。米粒が潰れすぎないように、それでいて岩蔵が喉へ詰まらせない柔らかさになるように。

 窓の外はまだ青暗い。

 卓臣が出張へ持っていった車はなく、家の前の道にも人影はなかった。二階の寝室に彼はいない。それでも家の静けさが安らぎへ変わることはない。

 昨夜叩かれた左頬は、夜が明けても熱を持っていた。口を開くと、噛み切った内側の傷が歯へ触れる。鏡を見れば赤みが残っていたが、長い前髪を下ろせば隠せる程度だった。

 紬は小さな保冷剤を頬から外し、冷凍庫の奥へ戻した。

 見つかれば、食べ物を入れるところへ汚いものを置くなと言われる。自分の顔へ使ったものを、八重が許すはずはない。

 粥を椀へ移し、塩をほんの少しだけ振る。昨日は味がないと吐き出され、その前は塩辛いと椀を投げられた。何が正しい量なのか、もう紬には分からなかった。

 盆の端には、ぬるめに冷ました番茶を置いた。

 熱ければ怒り、冷たければ病人を殺す気かと怒る。指を浸して温度を確かめようとしたが、荒れた皮膚が触れれば不潔だと責められるのを思い出し、紬は手首へ椀の底を当てた。

 火傷しない温度だった。

 少なくとも、紬にはそう感じられた。

 岩蔵の部屋の前へ立つ。

 障子の向こうから、湿った咳が聞こえた。紬は一度息を整え、声をかける。

「おはようございます。朝ご飯をお持ちしました」

 返事はなかった。

 障子を開けると、薬と汗の匂いが籠もった空気が顔へ触れた。岩蔵は布団へ半身を起こし、窓の方を睨んでいる。

 紬は盆を畳へ置き、背中へ薄い座布団を差し込んだ。

「お身体を少し起こしますね」

「触るな」

「このままだと、むせてしまいますから」

「うるさい」

 細い腕に予想外の力が入り、紬の手を振り払う。爪が昨日つけられた手首の傷を掠め、鋭い痛みが走った。

 紬は顔を歪めそうになるのを堪え、岩蔵の身体が倒れないよう肩を支えた。

「申し訳ありません」

 謝りながら、なぜ自分が謝るのかを考える余裕はなかった。

 胸元へタオルを当て、粥の椀を持つ。匙で少量をすくい、何度か息を吹きかけてから、岩蔵の口元へ運んだ。

「熱くありません。少しだけ召し上がってください」

 岩蔵は唇を固く閉じた。

 匙が触れる直前、枯れ枝のような手が動いた。

 金属の匙が弾かれ、畳へ落ちる。乾いた音が鳴った直後、その手が粥の椀へぶつかった。

 椀が傾いた。

 白い粥が紬の胸元へ流れ落ち、左腕へまともにかかった。

「っ……」

 息だけが喉から漏れた。

 布地を通して熱が皮膚へ貼りつく。反射的に服を引き離そうとしたが、岩蔵の身体が前へ傾いたため、紬は逃げられなかった。片手で肩を支え、もう一方の手で椀を受け止める。

「危ないですから、動かないでください」

「殺す気か!」

 岩蔵が叫び、紬の手の甲へ爪を立てた。

 薄い皮膚が裂けた。四本の赤い線が浮かび、そのうち二本から血がにじむ。

 痛みに指の力が抜け、残った粥も畳へこぼれた。

 襖の向こうで、足音が近づく。

「何の騒ぎだい」

 八重が障子を勢いよく開けた。

 紬の胸から腕へ粥が垂れ、畳には椀と匙が転がっている。岩蔵は両手を震わせ、声を上げていた。

「熱い! 殺される!」

「お父さん、大丈夫?」

 八重は岩蔵の側へ駆け寄り、背中をさすった。紬が火傷した腕を押さえていることにも、血のにじんだ手にも目を向けない。

「熱くないように冷ましてから、お持ちしました。でも、おじいさんが椀を――」

「言い訳するんじゃないよ」

 八重の声が、朝の冷えた部屋へ鋭く響いた。

「熱かったから父さんが怒ったんだろ。床をきれいにしな」

「はい」

 紬は唇を噛み、立ち上がろうとした。濡れた服が皮膚へ擦れ、胸元と腕に焼けるような痛みが走る。

「どこへ行く気だい」

「雑巾を取ってきます」

「食べ物を粗末にするな」

 紬の足が止まった。

 八重は、畳へ広がった粥を顎で示した。白い米粒に岩蔵の寝巻きから落ちた糸屑が絡み、紬の手から落ちた血が一滴、端へ滲んでいる。

「まだ食べられるだろ」

「でも、畳に落ちています」

「だから何だっていうの。あんたがこぼしたんじゃないか」

「……分かりました」

 紬は床へ膝をついた。

 粥の熱が畳へ吸われ、湿った湯気とい草の匂いが混ざっている。火傷した腕を庇いながら、指先で米粒を集めようとした。

 その手を、八重の声が止めた。

「手で取るんじゃない。床まできれいにしろ」

 意味を理解した瞬間、紬の呼吸が浅くなった。

 岩蔵の前には、まだ使われていない箸も匙もある。手を伸ばせば届く。けれど八重はそれを許さず、紬を見下ろしていた。

「早くしな。仕事に遅れるよ」

 背中へ、八重の足先が当たった。

 強く蹴ったわけではない。逃げようとするものを追い立てるように、ゆっくりと押された。その軽さがかえって、紬を人として扱っていないことを伝えていた。

 掌を畳へつく。裂かれた手の甲から血が落ちた。

 顔を近づけると、冷め始めた粥と古い畳の匂いが鼻を満たした。胃がせり上がり、喉の奥が狭くなる。

「まだ残ってるだろ」

 八重の声が頭上から落ちる。

 紬は目を閉じ、畳に落ちた粥を口へ入れた。

 米粒の中で細い糸屑が舌へ触れた。噛まずに飲み込もうとしても、乾いた喉が拒んだ。何度か息を止め、ようやく胃へ押し流す。

 岩蔵はそれを見ながら、荒い息を吐いていた。

 八重は何も言わず、紬の顔が畳から離れるたび、まだ残っている場所へ足先を向けた。

 最後の米粒が見えなくなる頃には、紬の目の縁へ涙が浮かんでいた。悲しいからではない。吐き気と、床へ近づけた顔へ埃が入ったせいだと、自分に言い聞かせる。

「畳がべたべたじゃないか」

 八重が言った。

「雑巾を持ってきます」

「当たり前だろ」

 紬は立ち上がった。膝に力が入らず、柱へ手をつく。粥のついた服が身体へ張りつき、熱の引いたところから冷たくなっていた。

 廊下へ出ようとした時、八重が湯呑みを持ち上げる。

「こんなぬるい茶を出して。父さんが腹を壊したらどうするの」

「お身体に負担がない温度にしたつもりで――」

「また口答えかい」

 湯呑みが振られた。

 番茶が畳へ弧を描き、紬の足元へ広がる。一部が脛にかかり、熱が皮膚を刺した。

 紬は動けず、茶色い染みが粥をこぼした場所より大きく広がっていくのを見ていた。

「ほら。洗うところが増えたよ」

 八重は空になった湯呑みを盆へ戻した。

「あんたがちゃんとできないから、朝からこうなるんだ」

 紬は返事をしなかった。

 声を出せば、胃へ押し込んだ粥まで戻ってきそうだった。

 雑巾で畳を何度も拭き、乾いた布を押し当てる。岩蔵の寝巻きを替え、濡れたタオルを洗濯籠へ入れた時には、家を出る予定の時刻を二十分過ぎていた。

 胸元の服は濡れ、粥と番茶の染みが大きく残っている。このまま制服へ着替えれば、肌へ匂いが残る。

 けれど浴室を使う時間はなかった。

 紬は着替えを取りに、廊下の突き当たりにある物置へ向かった。普段着は夫婦の寝室に置かれているが、仕事用の下着や古いシャツだけは、八重から邪魔だと言われ、物置の衣装箱へ押し込まれている。

 扉を開けると、薄暗い空間に防虫剤と埃の匂いが満ちていた。

 高く積まれた箱の隙間へ身体を入れ、奥の衣装箱を引き出す。蓋を開けた時、背後で扉が軋んだ。

 振り返るより先に、男の腕が紬の腹へ回った。

「……っ」

 背中へ繁政の身体が押しつけられる。酒と古い煙草の匂いを含んだ息が、耳元へかかった。

「静かにしろ」

 紬の身体が強張った。

 恐怖で動けないのではない。動けば、何をされるか分からない。それでも離れなければならないと、頭の中で何度も命じる。

「離してください」

「卓臣は二日も帰らないんだろ」

 繁政の手が腹から腰へずれ、尻へ伸びた。

 紬は身を捩った。狭い物置の中で肩が棚へぶつかり、積まれた箱が揺れる。

「やめてください」

「卓臣が相手をしないなら、俺がかわいがってやる」

 囁く声には甘さなどなかった。拒めばこの家から追い出せると知っている者の、濁った笑いが混じっている。

 繁政の指が服越しに尻へ触れた。

 紬は息を呑み、肘を後ろへ引いた。繁政の脇腹へ当たり、腕の力が一瞬緩む。

 その隙に身体を回し、両手で胸を押した。

「触らないでください!」

 声が物置の壁へ跳ね返った。

 繁政の顔から笑みが消えた。

 紬が扉へ手を伸ばした瞬間、繁政は自分から棚へ肩をぶつけた。

 金属製の棚が大きく傾く。

 箱と洗剤の詰め替え袋、古い食器の入った段ボールが次々に床へ落ちた。皿の割れる音が家中へ響き、扉の外から足音が近づいてくる。

「何をしてるんだい!」

 八重が駆け込んできた。

 繁政は脇腹を押さえ、床へ座り込んだ。たった今まで紬を抱いていた腕を震わせ、苦しげに顔を歪める。

「こいつが、急に抱きついてきたんだ」

 紬は言葉を失った。

「俺がやめろと言ったら、突き飛ばして棚まで倒しやがった」

「違います」

 声が掠れた。

「お義父さんが後ろから抱きついてきて、身体を触ったんです。私は、逃げようとしただけで――」

「見苦しい言い訳をするんじゃないよ」

 八重の目は、初めから繁政しか見ていなかった。

 紬の濡れた胸元へ、ようやく視線が移る。

 粥と番茶で濡れた薄い服は身体へ張りつき、乱れた襟元から鎖骨が覗いていた。八重は何が起きたのかを確かめる代わりに、汚らしいものを見るように唇を歪めた。

「そんな格好で男のいるところへ入り込んで」

「着替えを取りに来ただけです」

「誰に見せるつもりだったんだい」

「違います」

「お父さんが嘘をついてるって言うのか」

 繁政は俯きながら、口元だけで笑った。

 紬には見えた。

 八重からは見えない角度を選び、勝ったと言うように笑っていた。

「本当に卑しい女だね、あんたは」

 八重の言葉が、物置の冷えた空気へ沈んだ。

 廊下には子どもたちが集まっていた。

 茉白は紬の濡れた服を見て顔をしかめ、颯真は扉の陰からスマートフォンを向けている。結莉は八重のスカートをつかみ、繁政を心配そうに覗き込んだ。

 凌雅が苛立った声を上げる。

「母さん、朝から何やってんだよ。学校遅れるんだけど」

 湊人だけが少し離れた場所に立ち、紬の血のにじんだ手を見ていた。

 唇が動いたが、声にはならなかった。

 母さん。

 あんた。

 こいつ。

 女。

 家の中で紬へ向けられる呼び方はいくつもある。

 けれど、そのどれ一つとして彼女の名前ではなかった。

「ぼさっとしてないで片づけな」

 八重が命じた。

 紬は床へ膝をつき、割れた皿の欠片を拾い始めた。指先が触れるたび、白い破片同士がかすかな音を立てる。

 外では、通学路を行く子どもたちの声がしていた。

 時計の針は進み続けている。職場へ遅れれば奈津子に責められる。着替えも、火傷の手当てもできていない。それでも散らばった箱を戻し、床を拭き、繁政へ謝るまで、八重がここから出すはずはなかった。

 紬は破片を拾った。

 誰も、その手から血が落ちていることを気に留めない。

 片づけを終えた時には、出勤時刻まで十五分も残っていなかった。

 紬は物置で新しい服へ着替え、火傷した腕へ濡らしたハンカチを巻いた。鏡を見る余裕はない。頬には昨夜叩かれた跡があり、胸元の皮膚は粥を浴びたところだけ赤くなっている。手の甲から流れた血は、洗っても爪の間へ残った。

「行ってきます」

 玄関で声をかけても、返事はなかった。

 駅まで走る途中、腕を振るたび火傷した皮膚が服へ擦れた。息が切れ、肺の奥が冷たい空気で痛む。それでも足を止めれば、遅刻した理由を説明しなければならない。

 家庭の事情で、とは言えなかった。

 家の床へ落ちた粥を食べさせられ、舅から身体を触られ、抵抗したら誘惑したことにされた――そんな言葉を、紬は自分の声で形にすることができなかった。

 スーパーへ着くと、奈津子が打刻機の前で待っていた。

「御厨さん、三分遅刻」

「申し訳ありません」

「五人も子どもがいたって、仕事には関係ないから。早く着替えて」

 御厨さん。

 それは紬の姓ではあっても、彼女だけの呼び名ではなかった。卓臣も、凌雅も、茉白も、同じ御厨である。

 ロッカーの鏡の前で制服へ着替え、胸へ名札を留める。

 透明な板の下には、《御厨 紬》と印刷されていた。

 紬は安全ピンへ触れ、名札を少しだけまっすぐに直した。

 売場へ出れば、客からは店員さんと呼ばれる。奈津子からは御厨さん。家へ戻れば、お前、あんた、母さん、こいつ。

 呼びつけるための言葉はいくつもあった。

 けれどその日も、名札に書かれた「紬」という二文字を、声にして呼ぶ者は一人もいなかった。

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